日記33:今年も半分終わり

6月もあと数日で終わり、今年も折り返しとなる。今期はほとんど大学に行けれていない。ほとんど大学というものを諦めつつある。ただ、他に頑張るべきものもないのだが。

 

先日起きた某ブロガーが殺害された事件を見て、ひと月ほど前に起きた某登山家がエベレスト挑戦中に亡くなったのを思い出した。何か共通点があるのかといえばそういうわけでもないが、どちらもそのことについて考える度に精神的につらくなってしまう。

調べていると参ってしまうし、忘れるようにしたので正しいかは確信を持てないが、登山家の方はメディアに担がれファンに応援され続け、実力的に相応しくない山(それも今回はとても厳しいルート)へ何度も挑戦して諦め、プロ下山家と揶揄されるまでに至ってからのこの結末であった。ブロガーの方はネットの話題をまとめたようなブログでただ一度その話題に触れた程度で、犯人はそのブロガーがセミナーで地方に来るということで今回の犯行に至ったそうだ。

登山家を担いだファンたちは善意で応援していたのだろうが結果としてこの結末に至ったというのが後味が悪いし、ブロガーは悪意があってその記事を書いたというわけでもないのだと思うが、その記事が引き金となって事件が起きてしまった。他にも登山家自身が好青年であったとその道の人からも言われていた点だったり、犯人のある種の無気力さであったり、この事件によって拡散されたある言葉であったり、しんどいポイントはいろいろあるのだが書いているうちにこっちが参ってしまうので、この話題は終わり。

 

僕は好きな絵を描く人なんかをTwitterのリストに追加して眺めているのだが、これで何度目だというような話題がここ数日タイムラインを賑やかしていて、そういうのを見るのも疲れてしまった。絵が下手なうちは反応が薄くても孤独に耐えるしかないというような話題だ。では、どうすればそのままで孤独を紛らわせるかといえば身内なんかで小さいコミュニティを形成してその中で育っていけばいいというようなもので、実際それが駄サイクルと揶揄されても何らおかしくはないというように言い張る人もいた。そのコミュニティを広げていけば、絵が決してうまくない人でも多くの反応を得ることが可能だろう。

このことに関連するようなことをTumblrにも書いたのだが、作品は作品のみによって評価されるべきと思っている自分がいる。それは自分よりも絵が下手と思っている人が自分よりも評価されていることに対する嫉妬と、見てもらえれることさえすれば当然評価を受けられるという慢心から湧いた感情なのだろうが。あ~~既にダサいけどこれ以上書くとクソダサくなるから終わり。ブログじゃなくて自分の作品で主張するべきなんだよな。何か作るか。作ったことも無いのに。

 

今年も半分終わりと言っておきながら、内容は上半期の振り返りなんかではなく、ただただネガティブな話題になってしまった。

最後に。パスピエで一番好きな曲は最終電車

 

 

日記32:こけた、映画を見た

大人になるにつれて怪我をする機会というものは減るもので、最近は怪我しただ骨折しただという話を聞くだけで体が縮こまってしまうようになってしまった。でも生きているならそれは避けられないもんですから、いつか来るその日を想像してはキュ~~ってなるのを繰り返すことがよくあった。

そんでその日が来てしまった。自転車で転んだのだ。痛かった。頭ゴッツ~~ンいきましたわ(千原ジュニア)。膝や肩から血が出てるし、なんか太ももが腫れてる。こけた時に大丈夫ですかと声をかけてくれた女子高生は特に可愛くもなかったので、怪我の功名にはなれず、ははは……という曖昧な返事しかできなかった。我ながら最低でキモいな。でも声をかけてもらえたのは嬉しかった。もし声をかけてもらえなかったら予約していたふたつの映画を見る気さえなくして家に帰っていたかもしれない。

 

リズの青い鳥

ユーフォは一期途中で見るのをやめてしまった、すまん~~と叫びながら入場。以下妄言。オタクらが最も語りたくなる場面は希美の「みぞれのオーボエが好き」ですが、とここまで書いたところで次の文章をうまくまとめられず6時間くらい何も書けずにいる。……さてこの言葉、希美の本心から出たものか疑わしいとすら思っていますが、みぞれを飛び立たせるためには十分なものでした。物語はハッピーエンドがいいよ、と希美が言っていますが、映画も希美のこの言葉でなければ二人の関係がハッピーエンドで終わることは無かっただろうなと思わせるくらいに機能しています。まぁそのとき二人ともに多少の痛みはあったのでしょうが。

しかしこの物語の中でハッピーエンドだとしても、みぞれは希美のこの言葉をずっと背負って生きていくのだろうし、希美は本当に罪深い女だなと思った。そう思うと最後の追いつくから的な発言も私からは逃れられないよという意味に受けとれてしまう気がしてきた。いやそれだとこの物語がバッドエンドになるしダメですね。この映画はいろいろな解釈の仕方ができるし疲れてましたね。ずっと頭の中をグルグルしている。そろそろデッドプール2の感想に行きましょう。

 

デッドプール2

最高だった。1は普通に面白いって感じでしたけど今回は傑作だと思います。

最高の一言で十分なんですけどこれだとブログ的にも寂しいし好きなところを挙げていくとすれば、今回デッドプールがポリコレに配慮しまくる。これは差別だから訂正しろみたいなやり取りが何回かあるんだけど、そのキャラクターのせいで映画文化に普及したポリコレを馬鹿にしているようにしか見えないのが面白い。この思想と娯楽との距離感はとても難しく、普及した、というよりも蔓延ってしまったと感じている側の人間なのでこういうのがあってよかったなと思っている。他にも好きなところはあるのだが何を言ってもネタバレになる気がするので気になったら見に行ってほしい。1を見ていなくても満足できるはずです。

だけども、ただ僕はアメコミ映画、もっと言えば映画自体に熱心というわけでもなく知識も乏しいのでこの映画に溢れるパロディを拾いきることはできず、その知識があればより楽しめたんだろうなと思った。映画を見た後に元ネタ集めたサイトなんかないかと調べてみたけど網羅してると言えるほどのものは見当たらなかったのでコツコツ探します。今回は字幕で見たので次見るとしたら吹替えでですね。

日記31:

特に書くこともないのだが、することも無いので日記を書く。日記30が1年前の記事なのでもはや日記と呼べるものではない。ちょうど1年、というわけで1年を振り返って書くというような気力も無いので適当に思い浮かんだことを書き連ねていくしかない。

 

Tumblrを始めた。

ohnishiko.tumblr.com

Twitterで呟くには何か違うし、ブログでひとつの記事にするほどでもないような作品の感想だとか日々の生活で感じたことを投稿していこうと思う。と思っていたんだけどブログにできるようなことさえTumblrで済ませてしまいそうな気がする。ブログの醍醐味として今こんな風に思いつくままに文章を書くことがなくなりそうだな。まぁこれもすぐに飽きて更新が途絶えるんだろうけど。

 

よつばと!14巻が発売された。前に発売されたのが大学1年の11月下旬だったと思う。デレ3rdに向かう新幹線の中で読んだ記憶がある。あれからもうこんなに経ったのかと思いつつも13巻の話をほとんど覚えてない。ばあちゃんがでてきたことくらいしか思い出せない。

今回の話だが、ドレスの回を読んで、女の子の誰もが憧れるプリンセスによつばも憧れるように成長してよつばも普通の女の子になっていくんだなと思った。よつばは小学校に行くとひまわり学級行きなので小学校編はあり得ないなど散々言われていたのだが[要出典]、しかしちゃんと成長している姿を見られて嬉しい。鏡に向かって「うふふ」と言っているシーンで僕は泣いた。あとその回に出てくるあさぎを見て、もうあさぎ以上の年齢になってしまっていることに気付いた。気付いただけで特に何もないのだが。

他に思ったことを挙げていくと、アオリの構図のコマが多くなってる気がした。前の巻の記憶がないので完全に印象だが。冬服のよつばが可愛い。切符に書いてあった「紫陽花から」を見てどこかの駅名だろうかと「紫陽花 駅」と検索しようとするとよつばとがサジェストされて笑った。僕も車が欲しくなった。もしよつばと!が万が一アニメ化されるならそれは3DCGでだろうなと思った。実際にゃんぼー!のEDではそれでよつばが動いているんだし当然のような気もする。

 

ジャンプで連載していたフルドライブが終わってしまった、もう2,3か月前のことだが。絵が好きなのとヒロインが可愛かったので読んでいたのだが最終回の前の話がとてもよく単行本を購入する気にさせた。全16話で打ち切りだったのだが単行本は2,3巻同時発売ということで、3巻にしては話が少なすぎるし連載前の読み切りなんかが載るにしても何らかの描きおろしエピソードであったり設定資料だったりも載せてくれるのかと期待したがそんなことはなく、2,3巻とも本編は単行本の半分までで残りはフルドライブ連載前の読み切りだった。

また2巻を買う人は同時発売である3巻も買うしかないだろうからそうなれば1冊当たりの印税は変わらないし作者としては出せる単行本も多いほうがいいのかもしれないが、読者としては本編を読みたいのであって連載前の作品が読みたいわけではない。このように連載前の読み切りを載せるのは珍しくないことだと思うが、それは中途半端な空きを埋めるためであって、もともと2冊で収まるボリュームだったのにわざわざ一冊増やす必要があったのだろうか。作者もそんなこと分かっているだろうし背に腹は代えられないということなのか。そんな風にもやもやしつつも作者の次の作品に期待しているし頑張ってほしい。

 

自転車を買った。半年ぶりに乗った自転車で風を感じ、そのまま京都へ行ってみた。遠かった。疲れた。日常の行動範囲が少し広くなったので、いい。

 

ホワイトボードを買ってみた。手帳やスマホなんかでToDoリストを管理するのも無理だし、今月今週今日という風にその期間でやりたいこと、やるべきことを挙げていけば生活も何となくよくなるかなと思ったからである。とはいえ生活なんてものはそんな風に簡単に変わるものではなく、書き連ねていった様々な達成されるべき予定は、まるで台所のシンクに溜まった食器類のように僕をじっと見つめていて、その視線から僕は何とか逃げようとして、その事実は僕が駄目人間の烙印を押されているような気分にさせるのだ。そう遠くないうちに僕は壁に掛けたこのホワイトボードを捨てるのだろうな。

逆張りの逆張りのそのまた逆張りの……

今さらこんなことでああだこうだと消耗しているのもあほらしいと思うし言及するのもナンセンスだと思ったけど書く気になったので仕方がない。自分の最初の気持ちを大切にしたい。鉄は熱いうちに打て。オタクは暑がりなのですぐ打ちたがる。

 

オタクはなぜ逆張りしてしまうのかなんとなく考えて、オタクに湧く様々な欲求の中でその2つが原因になっているのではないかと結論付けた。その2つの欲求が「他のオタクに対してマウントを取りたい」「何らかの新しい構図を発見、そして言及したい」である。1つ目が主な原因。2つ目の方は少し曖昧でまだよく言語化できていないが許してほしい。

 

1.他のオタクに対してマウントを取りたい

オタクを始めたころならば流行に乗って楽しめるだけで気持ちよくなれる。しかしオタクとしての自我が芽吹き始めるとそのことに疑問を持ち始める。流行り始めていたころは良かったがそれが身の回りのオタクたちの興味の的になりだすと暑がりなくせに冷めやすいオタクは他人を冷めた目で見て俯瞰してしまいがちなのだ。この時点で他に対して優位に立てているつもりになっている奴もいるが何も取れてはいない。まぁ他人に対してそうありたい気持ちは何者にも成れていないことを自覚している人にとっては常にあるものなのかもしれないし、こういう気持ちとは反対にかつてのオタク1年目のような気持ちも当然残っているままなのでその間でオタクは苦しみがちである。

2.何らかの新しい構図を発見、そして言及したい

オタクになったオタクらがアニメであったり漫画であったり何なりに対しての知識欲を全員持っているし、それで得られた知識について自分なりの考えを持っているべきと自分は考えている。そしてその結果で得られた様々な自分の解釈を他人に見てほしいし、共感してほしいという気持ちがある。自分なりの解釈を得られたとき、それは本当に気持ちがいいことであり、さらに認められるのであれば絶頂だ。

 

そしてマウントを取りたいという気持ちが肥大化したときに2つ目の欲求がマウントを取るための道具として使われ、その結果が逆張りとなる。自分の持ち得る構図を総動員して、足りなければ他人の道具を借りてこの際自分の理解など関係無しに他人にそれをかざす。そしてそのようにマウントを取るオタクが増えてくると再び他人の道具を借りて逆張りしているオタクたちにマウントを取るため逆張りを繰り返す。逆張り逆張りは順張りなんかではない。この逆張りのスパイラルは終わりのない螺旋階段を登るようなもので上にいる人は下の人を見下せている気分でいるが、下にいる人は上にいる人を見てはどこへ向かうのだろうと不思議に思う。

 

逆張りのスパイラルに陥っていると気付いたとき、オタクは何も言えなくなる。(語り得ぬものについてさえ語ってしまうのがオタクの特徴と言ってもいいほどなのに。)それは言及することさえ順張りでダサいと感じるからだ。言ってしまえば逆張りスパイラルに対しての逆張りがそこで生まれる。逆張りしたがるオタクは自分の考えが弱いし作品に向き合っているかと言えばそこまでであり視線はいつも他のオタクに向いている。自我が生まれたばかりで自立できないから他人によって自己を確立させるしかないからなのだろうか。まず自分の考えが確立していたりするならマウントを取る必要もないだろう。2つの欲求が逆張りを生むと初めに言ったが、それはつまり2つの欲求の不均衡によって生まれるもので2つ目の欲求のままに忠実に従い進んで共感さえもそれほど必要としなくなった時がオタクが逆張りから逃れられる時なのかもしれない。

 

ある言動が逆張りかどうか考えたところで結局何も生まないことは皆がなんとなく気づいている。それでも考えずにはいられないのは他の逆張りオタクに馬鹿にされたところで何も痛くはないはずなのにその言動がそのように馬鹿にされる恐れがあるからだ。そういうのをオタクはひどく嫌う。

 

自分の言動が他人にどう思われようとそれに最初に触れたときの感情を大切にしていきたい。かといってそれに縛られることなく他人の視線に捉われることなく自分の考えを深められることができるのならオタク人生冥利に尽きると思う。

 

 

絵が上手くなりたい

大西です

久しぶりのブログ更新、前回の更新がいつだったのか全く覚えていない。今回は絵を描くことについて書いていこうと思います。読ませる気はないのでとても読みにくい記事になると思います。

 

タイトルの通り最近絵が上手くなりてえなぁとより一層思うようになりました。とはいってもここ二週間ほどはまったくと言っていいほど絵を描いてない。描けない。上手い絵ってなんだよ。描きたい絵もそれほどないですし、まぁ描くのが面倒なんですわ。

 

同じく最近思ってるのは絵を描く仲の良い人が欲しいです。友達がいないので。話す相手もいないのでブログに書いて気を紛らわすかといったところ。

俺はなんで絵を描いているんだ?絵は最近描いてないと言っても落書きはずっとしてるし暇だからか、面倒だけど没頭できるし描いてるときは他のこと考えなくてもいいし気分も楽だからなのかもしれない。

6月にシンデレラのライブにフラスタ描いてその絵が反応よくてそういう経験は初めてだったから嬉しかったですね。フラスタの絵を描いたのは初めてではなくて今回は良く描けたなとは自分では思っていたんですが、オタクは違いが分からないだろうし反応はいつも通りなものだろうと考えていたらこの結果だったから違いが分かるんだぁと知ってじゃあ昔の絵はやっぱり下手だったとバレてたんだなぁとひとりで勝手に恥ずかしくなりました。

自分でその頃なんとなく感じていた少し上手く描けてるという感覚がオタクからの評価という結果で現れたので勘違いではなく実際に上手くなったのかなと実感できました。

Twitter見てると自分よりも上手い人がたくさんいて辛くなる時もあります。最近は自分より上手い人の絵を見たときに「ここどうやって描いてんだろう」と頭の中で再現してみたりしてます、教えてくれる知り合いもいないので。少しは上手くなったかなと思えるようになったのはそれのおかげもあるのかなと思います。

絵を描いてついでに承認欲求も満たせれればそれが100点かもしれませんけど、それよりも自分が今まで持っていなかった技術を得られるのが一番楽しいですね。一朝一夕でグッと上達するのは困難ですが、1枚絵を仕上げるごとになんらかのテーマ、塗りだったり線画だったり表情だったりを持ってそれを満足できるまで描いてみるとかするのが自分に合った上達法かなと考えています。

結局手癖に頼った落書きばかりでは絵は上達しないし落書きばっか上手くなるだけな気がします。ちゃんと目的意識を持たないと、まぁそれがだるいんから最近描けなくなったんですけどね。だって落書き楽しいからなぁ。ちゃんと1枚絵を仕上げるの面倒ですもん。だるいし。絵は完成に向かっているはずなのに仕上がっていくのは自分のイメージと違う思いっきり下手な絵とかよくありますし、そういうときは本当にしんどい。自分から「お前は絵が下手だ」って言われているような気分になります。まぁ実際下手なんだから仕方がない。

毎回構図を考えるのに時間がかかるのをどうにかしたい。いつも適当に何個かブァ~って描いてその中から良さそうなのをちゃんと描いてみる、ダメならまたやり直しってのを繰り返してる。これじゃあ上手くならんわ。最後にちゃんと仕上げた絵では描きたいところを意識してそこから考えてみたら少し上手くいった気がするからそれで頑張ってみるしかない。

いい加減背景が描けないのをどうにかしたい。俺には無理。あとそれに絶対パソコンが死ぬ、描いたことないから知らんけど。でも最近は落書きで描いたりしてるからいつか挑戦したい。

ちゃんとイメージした通りの姿勢が描けるようになりたい。

他にもできるようになりたいことはいっぱいある。できることとできないことを知ることは大切ですね。

あと漫画も描いてみたいけど自分にはキャラを喋らせるのがとても恥ずかしいからキツイ。昔は絵を人に見せるのも恥ずかしかったけど今はそれほどでもないから克服できるかもしれないし結局のところウジウジしとらず描けと言う事なんだろうな。

 

11月の初めにある学祭、漫研の企画で僕も多分ポストカード描いてそれ販売するから買ってね。

おわり

日記30:4月も終わり

どうも、おおにしです。

晴れた日が続き桜が咲きSAKURAスキップを聴きながら新生活の始まりを感じていたかと思えば、曇りが続き雨が降り桜も散ってしまいました。季節が移るに1ヶ月という期間はとても十分だと改めて思ったこの1ヶ月です。さて桜の季節が終われば何の季節と呼べばいいのでしょうか?正解は自分語りの季節です。

 

前回の更新から既に1ヶ月経ってしまいましたね。あの記事の次の日に親に大学生活の現状を話して死ぬほど怒られると思ってましたが、実際は呆れられたり精神を心配されたりでワロタって感じでした。まぁそんとき死ぬほど泣いてたんですけどね。また「1からやり直すつもりで頑張ってこい」と言われたことで気分が楽になりました。

さて、つらい話はもう終わりにして次のつらい話にしますか。大学ですね、大学。朝がつらい。当たり前のように毎日1限です。毎日無限だった去年とは大違いです。それでも3週間経って今のところ休んだのはたったの2コマだけですし頑張っているんじゃないかと思います。

それにつらいとはいえ肉体的に少しつらいだけで精神的には去年のような"何もしていない焦り、虚無"といった感情に押し殺されそうになることは無いですし、何か行動をしているという事実があるのでちょっと前向きな気分になれます。また無駄な思考をグルグル繰り返すことも少なくなったと感じます。この話を友達に話したらクソ笑われました。

とりあえず大学に行くという目的は今月達成できたので来月はそれなりに勉強したいです。今まで通りテスト前に一気にやればいい、という思考だったらテスト以外で大学来る意味ないじゃんとなってどうせ不登校になりますし、それにそうやって勉強せず無のままテストに挑んだ経験しか無いので。

 

話は変わりますが、先週末に田所あずささんのライブとナナシスのライブに行ってきました。とても楽しかったです。しかし田所あずささんではDREAM LINE、ナナシスではBehind Moonという一番好きな曲を聴けれずいまだにモヤモヤしてます。特にナナシスの方はお金があれば夜公演も参加できただけに、涙を流しながら、いや、涙を隠しながら事前に取ってあった新幹線で大阪に帰ったのはとてもつらかったです。他にもライブについて自分の中で思うところは色々あったので、次のナナシスの武道館ライブはちゃんと全部参加したいです。4Uのワンマンは大阪はとりあえず行きます。なんかこれもつらい感じの話になってしまったな。誰か、誰でもいいので走り出した俺の背中にエールをください。

 

それではまた

日記29:帰省なう

3/24、今日は帰省の日。僕は鳥取へ向かう高速バスの中にいた。僕は親に成績証明書を渡すために、そしてこの学生生活の現状を報告しに、つまり怒られるために今バスに揺られている。もともと車酔いしやすい体質に併せて現在進行形で地獄へと確実に向かっているバスが自分の気分をとても悪くさせる。
そんなときTwitterで同じ学科の人たちが分属結果がどうたらと言っているのを見て焦る。

早速大学の公式サイトを覗きに行くとコース未配属、学年はしっかり3回生なのに配属されていないではないか。さらに焦る。

何がダメだったんだ。2回生でひとつも単位を取っていないことか、それとも分属希望調査書を出していないからか。焦る。

親に「単位取れなかったけど分属はされたよ!大丈夫!」なんてクソみたいな笑顔作って去年のこの時期に渡した成績証明書と日付以外は同じやつを渡すつもりでいたのに。
そんな時学科の人からリプが飛んでくる。どうやら大学構内での掲示による発表らしい。友人が学科に一切いないのでその類の情報が全く入ってこない。まず学科の人って言い方がアレだしオタクだ。そしてTwitterで見つけた画像を見てみれば自分は一応分属されていたみたいだった。

ちょろいな!人生!!!なんとかなるわ!!!!!
今年取得単位数0という過酷な現状は変わらないままなのに少し気分は明るくなった。どうせなら配属されなくて実質2回生のままのほうが取る講義分かりやすくて楽だなんて思い始めた矢先のことだった。

鳥取駅に着いて高校生の頃によく行ったラーメン屋で食事を済ませたら親から「今仕事終わったからそのまま迎え行くよ」とメール。僕の実家は鳥取駅から1時間くらいかかるところにあるので乗せてもらうのが普通なのだがまだ親と顔を合わせたくなかったのでこれを拒否。汽車で帰ります……とだけ返信した。

なんとか帰るのを遅くしたいので本屋を巡り巡ってそれから駅のドトールへと逃げ込んだ。それから1時間半ほどしたら午前3時から起きていた僕の眠気がピークに達したので仕方なく帰ることに。そして午後8時、今僕は汽車に揺られている。バスに乗っていた時と同じように気分はすこぶる悪い。